夜明け前のまだ薄暗い空の下、軽自動車のハンドルを握り、覚えたての細道を走らせた。靄がかかった坂道を下ると、窓ガラスの外にどこまでも続く海が広がっていた。車を止めて波止場に登り、灯台のもとに腰を掛けて数分、穏やかな波に真っ赤に燃える道が姿を現した。足元から水平線まで、まっすぐに伸びている光の道に心を奪われた私は、おぼつかない足取りで波打ち際を行ったり来たりすることしかできなかった。
大学二年の夏休み、牟岐町に足を踏み入れてすぐのことでした。
生まれも育ちも東京、そのまま都内の大学に進学し、故郷と呼べる場所もない私は、その生い立ちから「シティーガール」と呼ばれることが珍しくなく、しかし褒められているようでどこか馬鹿にされているような呼称が奇しくも似合ってしまうほど、地方のことも地方で暮らす人々のことも何も知りませんでした。大学進学後、全国の高校生に向けたサマースクールの運営やリゾートバイト等を経て、いかに都市と地方の違いについて無頓着だったかを思い知らされた私は、かねてより課題意識と興味関心を抱いていました。
牟岐町で活動する中間支援組織・NPO法人牟岐キャリアサポートは、地方についてそもそも何が分からないかすら分からないような状態の私を、夏の間、インターンシップ生として受け入れてくださいました。牟岐町で暮らした1ヶ月間は、まるで牟岐町に訪れることが無かったらと考えるだけでゾッとするほど人生に欠かせない学びや気付きを獲得することができた期間でもあり、高校生の頃からすり減り続けていた感性や感情を再び取り戻すためになくてはならない期間でもありました。
1カ月あまり、牟岐町外のいろいろな場所で、様々なかたちで牟岐町に関わる方に出会い、それぞれの生き方や考え方に基づいたたくさんの言葉をいただいてきました。
牟岐町内では、何らかのかたちで牟岐町に関わり続けている10代後半から20代の若者と一緒に姫神祭でバンド演奏を行ったり、町内で子どもの居場所づくりを行っている「ゆあぷれ」に鳴門教育大学の学生と一緒に参加させていただいたり、町内で活動する「特定非営利活動法人ひとつむぎ」のファウンダーから現在のメンバーまでひとつむぎの活動に携わったことのある方々にお話を伺ったりしました。中でも「面白い」「住みたい」「住み続けたい」と感じることのできる町の実現を目的とした組織「百〇八°」の皆さんとは歳が近いこともあり、牟岐キャリアサポートのインターン生としてだけではなく、一個人として様々なお話をすることができました。
また牟岐町役場の方、JAかいふ牟岐事務所の方、JAかいふ牟岐女性部の方、観光協会の方など、牟岐町で暮らし続けている方にも度々お会いし、牟岐町に関する貴重なお話をたくさん伺うことができました。海部郡保健安全教育教職員研修にも参加させていただき、講演を聞いたり教育現場の方と一緒に防災についてのワークショップを行ったりしました。
さらに牟岐町が受け入れている大学のゼミ生からも同じ大学生として率直なお話を伺うことができました。大阪公立大学・経済学部のゼミ生と日本一長い商店街・天神橋筋商店街で県や町の特産品を販売したり、牟岐町との共同事業を展開する京都産業大学・現代社会学部のゼミ生が地域活性学会で発表する様子を見届けたりしました。
地方自治、機会格差、伝統、文化、防災、そんなようなことをひたすら考え続けた1ヶ月間でした。広告だらけの雑多な東京に比べて手に入る情報が限定されているからこそ、「考えるべきこと」ではなく「考えたいこと」「考えてしまうこと」にしっかりと向き合えているような感覚がありました。この感覚は、COVID-19が流行し始めた頃、理不尽にも思える制度が設けられた学校という社会の中で、奮闘し続けた頃に覚えた感覚とどこか似通っているような気もします。
そして何より、街に住む人、集う人に話を聞けば聞くほど、豊かな自然が印象的な街に生活感が感じられるようになりました。当時は考えてもみませんでしたが、東京に帰ってきてから更によりいっそう、その感覚は説得力を持つようになりました。
街を思い出そうとすると、街の風景よりも出会った方の暮らしを想像してしまうようになりました。1か月間という時間は、都市であろうと地方であろうと、ましてや故郷でも何でもない場所ですら、同じ空の下でただ生活が続いているという実感を持つには十分でした。
だからこそ、大切な街だからこそ、また大切な人と一緒に足を運びたい。私にとって牟岐町はそんな愛おしい街になりました。貴重な経験ができ、お世話になった牟岐町の方々ありがとうございました。
島崎 恵茉
東京都出身 中央大学法学部政治学科在籍